欲しいスニーカーのはなしをする

栄が好きなおたく主婦。末永桜花ちゃんオキドキ!

ずいぶん昔のいじめの話

ヘアケアの記事やコンサートの感想を書こうと思ってたけどなんとなく筆が乗らなかったので、唐突に思い出したことをリハビリてがらに書く。私生活のことだしヲタ話は一切ないので興味ない方はまた読まないほうが良いかも。だいぶ昔のことです。私が小学校6年生のときの話。

 

大きなマンションに住んでいた。
仙台にタワーマンションなんてない時代、バブル真っ盛りの時に両親が買ったマンション。すぐ近くに公立の小学校があって、そのせいか同世代の子をもつ家族が多く住んでいた。

私はマンション買った時点で公立ではない小学校に通っており、前に住んでいた場所よりは小学校に通うのが楽になったこともあって転校しなかった。受験までしたその小学校は入ってみれば別にいいところでもなく、失望した両親は5歳下の弟をその近くの公立の小学校に通わせた。

そのマンションは当たり前のようにその公立の小学校に通っている子ばかりで、私はかなり浮いた存在だったように思う。通うのは楽になったとはいえ時間的には変わらなかった。乗り換えることなく通えるようになっただけで、片道1時間の距離を通学し、放課後はダンスクラブで忙しく、同じマンションに住んでる子と遊ぶことはあまりなかったような気がする。それでも休日や町内会みたいなものの交流で友達のようなものはいて、ごくごくたまに遊ぶ感じだった。

両親も他の家庭と密に交流するタイプでもなく、車で30分程度の距離に住んでいる叔父夫婦や、50分程度で着く祖父母の家とばかり交流をしていた。今も私はご近所付き合いというものがよくわからない。こんな環境で幼馴染と呼べる存在もなく、友人や旦那からその話を聞くと少しうらやましいように感じることもある。でもそれが不幸せだとは感じたことがなく、友達と呼べる存在がいるのでコンプレックスに感じたことはない。

 

そんな特殊?な環境だったので私はマンションの子供会には参加しなかった。しかし弟は地元の小学校だったので子供会には参加するという奇妙な状態だった。今思えばこれが1つの原因だったかもしれない。

 

 

私もアラサーになり、弟も無事大学を卒業して就職し、この間私1人で仙台個別に行くべく実家に帰った時、就職祝いで買ったという新車で2時間ほど夜のドライブに行った。感慨深いものがあった。

弟もずいぶん大人になったと思う。昔なら話せなかった家族の話や、恋愛観、仕事に対する姿勢なんかを話せるようになった。笑いながらドライブしてたとき、突然弟が「ありがとう」と言ってきた。

いきなりどうしたのと若干戸惑いながら聞くと、ずっとずっとありがとうと言いたかったというエピソードなるものを話してくれて、私も記憶の奥底に埋まっていたものが吹き出した。

 

前述の通り弟は子ども会に入った。しかし他の家庭は兄弟がいればそろって入会するのが当たり前であり、異質な存在であった弟は生来の人見知りも発揮してなかなか友達ができなかったという。学校に行けばもちろん友達はいるけれど、何故か同じマンションではできない。子ども会に行きたくないという弟を何回か見たことが合ったし、実際何度か休んでいた。親も辞めさせるか迷っていたのだが、進んで行きたがるときもあって結局その時点では辞めずにいた。

ある土曜日、私は久しぶりに早起きしたこともあって、なんだか暇を持て余していたので、マンションの自治会がやっている廃品回収に参加することにした。弟は確か行きたがらなかったので変わりに、ということもあったように思う。

久しぶりに参加する廃品回収は楽しかった。数少ない顔と名前が一致する同級生と話しながら、時折サボりながら各家庭のドア前においてある廃品を1階ロビーまで運び出していた。終わってご褒美のお菓子とジュースをもらい、公園で堪能してた時、一緒にいた同級生からこんな話をきいた。

 

「さよこちゃんの弟くん、〇〇くんたちにいじわるされてるみたい」
「え?そうなの?」
「よく階段上り下りさせられたり、蹴られたりしてるのみた」
「しらなかった」
「…ごめんね、言おうと思ってたんだけど言えなくて、今しかないと思って」

 

会話は断片的にしか覚えていないが、はっきりと最後の今しかないと思って、というところだけ覚えている。奇妙な家庭で奇妙な私にも優しく接してくれる子で、だから私にそっと伝えてくれたんだと思う。

 

聞いた瞬間私は瞬間湯沸かし器のように感情が沸騰するのがわかった。
今でこそブラコンな私だが、当時はそこまででもなく、半端に近い年齢の弟といつでも仲良しなわけではなかった。それでも家族で、たった1人の弟で、そんな弟がいじめられてるという話を聞いて黙っていられるはずもなかった。

〇〇という子は私でも知ってた。結構な問題児で、2歳程年上の私にもちょっかいかけてくるくらい強気な子だった。その話をきいて全く不思議に思わなかったのもそのせいだ。

 

たぶんその日、帰ってきた私は部屋で寝ている弟を起こして本当かどうかを聞いた。最初はしどろもどろだった弟も、少しずつやられた内容を話してくれた。幸か不幸かその日両親はでかけていておらず、止める人がいなかった私は弟の手をひっつかんで〇〇が住むマンションの最上階の部屋まで走っていった。

 

般若のようだったと弟は話す。

 

ドアチャイムを乱暴にならし、出てきた〇〇のお母さんに対して〇〇をこの場につれてくるように言った。かなり怒っている私をみてただ事ではないと思ったのか、○○を呼び出した。
廃品回収にも出てこなかったのだろうか覚えていないけれど、パジャマ姿の〇〇がいかにもめんどくさそうに出てきた。その態度に更に腹がたった。
勢いに任せて私は、これまで弟にしてきたことを洗いざらい吐いて、金輪際いじめをやめるように怒鳴った。

当の本人である弟は後ろでおろおろするしかなかったらしい。

 

「今度私の弟に同じことしてみろ!お前をこの9階から下に叩き落としてやるからな!」

感情が吹き出してたまらなくなりもう途中で怒鳴りながら泣いていた。唖然とするその子のお母さんはかばいも否定もせず、その場に突っ立っていたことにも神経に触った。

「こんないじめするやつを産んだお前も最低だ!〇〇が死なないように見張るんだな!」

 

なんとまあここまで思い出して赤面するやら申し訳ないやら。泣きわめきながら怒鳴ったのは覚えているけれど、それに対して相手がどう言ってきたかはまるで覚えていない。弟曰く迫力がすごかったのか、ただ謝ってただけだったよ、とのことだ。幼い頃の記憶だから定かではないけれど。

今考えるとお母さんを責めたのは間違いだった。〇〇は確かお父さんが単身赴任で、お母さん1人で育てていたはずである。彼女自身も働いていて、いつも子どもと向き合っているわけではなかったんだろう。幼い私はわからなかった。私は専業主婦のお母さんがいて、今は少し穏やかになったけれど亭主関白な父親が毎日機械のように定時に帰宅する家庭で育った。恵まれていたのかもしれない。今会ったならお母さんに対しては謝りたい思いでいっぱいだ。

 

「自分は怖くて誰にも言えなかったし、あの時は学校で友達がいなかったらどうなってたかわからない。それでも辛かった。でもお姉ちゃんが言ってくれたおかげでそれからいじめられなくなったし、むしろ仲良くなった。ありがとう。」

 

どうせ言うなら私が結婚するタイミングで言えばもっといい話になったんじゃない?と茶化しつつもなんとも言えない感情でいっぱいだった。感情を整理するのに時間がかかった。今もあんまり飲み込めてないのかも知れない。

弟があんなことでどうにかなってしまったら今の幸せがなかったのかもしれない、とは思う。

 

後日談として当然のようにこのことは両親にバレた。弟が言ったのか、はたまた相手の家族から言われたのかはわからない。でも私は叱られなかった。褒められたというわけでもないのだが、泣いていたお母さんの顔は覚えている。弟に気づかなくてごめんね、と言って、私にはありがとうと言った。善悪に関して厳しいお父さんが叱った記憶もないということは、結局どうしようもなかったこととして処理されたんだろう。このあたりは今度聞いてみようかな、覚えてるかな。

 

いじめに対してははっきり嫌だと意思表示できるのも1つの有効打のような気がする。嫌なことは嫌と言わないと、相手にも伝わらない。声に出さなければ伝わらない。それでもいじめがやまないとなると、やはり周りの人の協力がなければ難しいんだろう。

 

あの頃の私ははっきり嫌なことは嫌って相手に言えたんだなあ、今は言わずに飲み込むこと(そしてTwitterに呪詛を吐くネット弁慶)が多くなってしまった。家庭内でも察してちゃんは通用しないと身にしみてはいるけれど、まだ全部直ってるわけじゃない。現に今日1つイラッときたことがあったけれど、仕事から帰ってきて疲れている夫に対して苦情を言うのははばかられるよなーって悩んでる。でも言わなきゃ伝わらないんだよな、堂々巡り。悩みながら家族って作っていくもんなんだろう。

 

と、今日も感情整理のために書いてみた。そろそろ夕飯の支度します、読んでくれてありがとうございました。